杭州は昔から「上に天国があり、下に蘇州・杭州がある」と人々にたたえられ、蘇州とともにその美しさに「地上の天国」とも言われてきた絶好の観光地です。一度は行くべきところでしょう。杭州は浙江省の省都で、山、湖、泉、庭園に囲まれた古都です。13世紀にイタリアの旅行者のマルコ・ポーロが杭州を「世界で最も美しく、華やかな町」と例えました。中国の著名な詩人蘇東坡は「水光漣艶として、晴れるに好み、山色空蒙として、雨もまたかなり。西湖を西子に例えれば、淡粧濃沫が適宜である。」西湖に寄せる人々の愛慕の情を良くこの詩に表しています。この詩はつまり、西湖を中国古代の4大美人の一人である「西施」に例えて、西湖も西施と同じように、素顔でも化粧しても、いずれも美しく見えると言うことですね。杭州では「良緒文化」と名つけられた4000年以前の遺跡が発見されました。3000年前に杭州は「陽州の域」に属していました。紀元前221年から206年までの秦代に銭塘県が設立され、その時代に今の杭州という名前にあたえられたのです。隋の揚帝により大運河が開かれてから杭州は中国の南北をつなぐ重要な交通と貿易の拠点となりました。9世紀からは14人の皇帝が次々と杭州に都をおきました。杭州は温かい気候、豊かな物産と美しい環境に恵まれています。杭州は町の周りに連なる緑したたる峰峰、その懐にいただかれた幾筋もの谷、四季折々のたたずまいを映す西湖。また、その綺麗な西湖湖畔のここかしいこには、数え切れない名所旧跡があります。

町の南側には長さ約410キロメートルの銭塘江が流れています。銭塘江は別名を之江と言われていますが、杭州に近付くと大きく蛇ころし「之」という字の形をしています。[之江]は浙江と中国語での発音が似ています。それは浙江省の名前の由来です。中秋節前後に、この銭塘江の入り口の所で高潮があります。中秋節は旧暦の8月15日ですが、新暦では9月になります。たいてい昼の12時ごろが満ち潮の時刻です。つまり、中秋の名月のころ、杭州の満潮が銭塘江に時速25キロのスビート,4.5メードルの高さで海から川に、大地を震わせるな勢いで押し寄せる珍しい現象です。それは月の引力によって、海水が銭塘江に逆流する自然現象ですよ。銭塘江の高潮をみることは昔から盛んで、その季節になると、この大逆流を一目見ようとして、見物人が殺到し、銭塘江の両側は人で、埋まってしまいます。

これから西湖の話に入ります。西湖は南北3.3キロ、東西は2.8キロ、周囲約15キロで面積は5.6平方キロメードルあります。12000年前には西湖は内海だったのです。町は銭塘江下流の北岸にあります。地質学者の調査によれば、北の宝山と南の呉山はこの入り江を抱き込むように伸びた二つの岬でした。打ち寄せる潮に運ばれた砂が積もり積もって、とうとう岬の間が塞がれて陸地となり、残された内海が西湖となったわけです。西湖はその美しい景色によって、多くの内外の人々をうっとりさせています。西湖は白堤と蘇堤と呼ばれる長い堤防によって五つの湖面に分けられています。西湖の風景は一つの山つまり孤山と二本の堤防白堤と蘇堤、また阮公敦、湖心亭、小瀛洲と呼ばれる三つの島、外西湖、西里湖、北里湖、岳湖、南湖と呼ばれる五つの湖、西湖十景、つまり曲院風荷、平湖秋月、断橋残雪、柳浪聞鴛、雷方夕照、南屏晩鐘、花港観魚、蘇堤春暁、双峰插雲、三潭映月などから構成されています。ですから西湖にはどの季節に行ってもまた雨の日でも、晴れる日でも西湖のどこでも、自然美と人工美が見事に調和した美しさを心行くまで楽しむことができます。

孤山は西湖の西北、白堤のほとり、北里湖の一番西側にあります。この山はそんなに高くはありませんが、西湖の景色を眺める最適の場所として観光客に広く好まれています。また、孤山の南側のふもとには文欄閣、五湖天下の景、浙江省博物館、図書館、中山公園などがあります。山頂には西冷印社、西側のふもとには華厳教塔、辛亥革命の烈士秋瑾の墓、東北側には放鶴亭などがあります。文欄閣は浙江省博物館の館内にあり、中国でも珍しい「四庫全書」を所蔵した中国七大書庫の一つです。文欄閣の建物は清代の乾隆47年つまり1782年にもともとあった玉堂を改築したものです。所蔵する「四庫全書」は国の歴史上に最大で最も纏まった総合的な書物で世界的にも有名な巨著の一つです。全部で3万6千冊あり、中国に文字が誕生して以来、3000年にわたる政治、経済、科学、技術、哲学、地理、医薬学など各分野の著作を集めた一集大成です。同時代のフランスのディドロの百科全書に比べて十倍以上のものです。この全書は最初は4部しか作られず、北京の文欄閣、園明園の文源閣、河北省承德の文建閣、沈陽の文溯閣にそれぞれ一部ずつ収蔵されました。これは「内定四閣」と言われています。のちにまた三部、江蘇省揚州の文欄閣、鎮江金山寺の文欄閣、杭州西湖の文欄閣に収蔵されました。浙江省博物館は1929年に建てられ、浙江省各地で発掘した文物が多く展示されています。なかには、7000年前から4000年前にかけての余姚河姆渡遺跡からの銅品や杭州近くの良緒地区で発掘された5000年前から4000前までの新石器時代の文物。また商、周の時代、春秋戦国時代などの青銅器、磁器、古代書画、金石工芸品、木版印刷など多くの貴重な物が収蔵されています。展示品の中で特におもしろいのは、「噴水魚洗」という銅製の洗面器です。この外形は深い鉢形で底には二つの噴水魚が鋳込んであり、緑の両側にアーチ形の取っ手が付いています。中に水を入れ、取っ手をこすると器そのものがぶんぶんと音を立て中の水が噴水のように湧き上がってきます 。 西冷印社という所ですが、それは中国の金石の有名な研究団体で金石の保存と印章学の研究を目的としています。金石は書道と彫刻が一体となった中国のユーニクな風格を持つ優れた芸術遺産の一つです。この西冷印社は1913年に正式に発足してからたくさんの彫刻家を集め、日本からも有名な彫刻家が入会を申し込んだほど大きな反響を呼んだそうです。孤山には、放鶴亭があります。北宋時代の有名な詩人の林和靖は普段はよく絵を描き、また詩を作り、梅を植え、鶴を飼うのを好んだそうです 。この人は死ぬまで妻を娶らず、子供もいなかったので、「梅を妻として、鶴を子供とする」と言われました。林和靖はなくなってから、この孤山に葬られましたが飼いならしていた鶴が墓の前で悲しい泣き声を上げて死んだという言い伝えがあります。その後、元代の陳子安という人は林和靖が鶴を飼育したところに放鶴亭を建てました。その周囲には、梅が沢山植えられていて、一帯は梅林となっています。

それでは、今から二本の長い堤防について説明いたしましょう。蘇堤は北宋の大詩人蘇東坡が杭州の太守、つまり日本の知事に当たる地方長官をしていた時に建造したもので湖を南北に貫く2.8キロの長い堤防です。蘇堤には6本の橋が架けられています。解放後、杭州市は蘇堤を何回も拡張して、また道の両側に桃、柳、モクレン、モクセイ 、芙蓉など四季の花や木を植え、アスファルト舗装をしました。そして、新たに花壇、あずまや楼閣などを造り、岸は石で補強されました。白堤は千年前の唐代に大詩人の白居易が杭州で地方官を務めた時に修築した長さ1キロの堤防で両側には柳と桃の木々が続き、四季それぞれ美しい散歩道として、観光客が必ず歩いてみたい所となっています。

西湖の広々とした湖面に浮かぶ「三潭印月」は古くから「小瀛洲」とも呼ばれています。「小瀛洲」とは伝説上の仙人の住む島のことです。ですから、人々はここを蓬莱の仙境と見なしています。「三潭印月」は1607年に湖底をさらった泥で造られたもので 、面積は7万平方メードルぐらいあり、その半分以上は「湖中に島あり島に湖あり」という景色となっています。そして、南から北へは九曲橋が架けられ、東からは竹林の道が切り開かれて、空から島全体を眺めると「田」の字に見えます。ここは湖上遊覧の中心です。三潭印月を修築した時に、杭州の地方官だった蘇東坡は湖の最も深い所に三つの塔を建てて、菱や蓮を植えることを禁止しました。三潭印月は古くから月色の景勝地なのです。波の輝きゆれる湖面に、三つの石塔がすくっと突きだって、「天上に三つ湖中に三つ」という不思議な 、魅惑的な景色が生まれます。その石塔は1621年に建てられた物で2メードルあり、ボールのような塔身には5つの小さな丸い穴が等間隔で開けられています。中秋の名月の夜に石塔の中に点灯され、穴に薄紙が貼られると小さな月のような5つの光が湖に影を映します。月が昇れば、月の輝き、灯光の光、湖水の輝きが互いに映りあい 、観光者をうっとりさせる夜景を見せてくれます。三潭印月の北にしだれ柳が一面に広がっている小さな島があります。湖心亭はこの島に建てられています。湖心亭は嘉慶31年、つまり1552年に建てられた物です。このあずまや棟木や梁には絵、あるいは彫刻がほどされます。四面が水に臨み花と柳がいっぱい植えられて、風光麗しいところです。この湖心亭に立つと西湖全体を目で見渡すことができます。これを「湖心平眺」といいます。湖心亭の西北に、柳が陰を作り、緑がいっぱい小さな島がありますが。それは清の時代に西湖を修理した時に、西湖の底の泥を積み上げてできたもので「阮公敦」と呼ばれています。そこは土壌が柔らかくて建物が建てられないため、今でも美しい自然の姿が保たれています。

西湖の東北、白堤の東の端に「断橋残雪」と言われる橋があります。それは一種の自然現象を言っているのです。つまり冬に積もった雪がまずアーチ型の橋の中央部から溶け始め、そこだけが黒っぽい地面が見えます 。それを宝石山の山頂から眺めると溶けた部分が折れたように見えます。それが断橋残雪の由来です。また、中国では大変有名な民話「白蛇伝」の主人公「白素珍」と「許先」が巡り合った所はこの「断橋」です。越劇「断橋の巡り合い」京劇「断橋」などがこの橋にいっそうロマンチックな情緒を増しています。これは中国版の「ロミオとジュリエット」の愛情物語です。白堤に沿って、西へ進むと孤山に至りますがその孤山の南側に湖面にせり出すように広がる400平方メードルほどの展望台があります。それが有名な「平湖秋月」です。中秋の名月の夜、ここから望む満月と湖水に揺らめくその投影は最高です。「万頃の湖、平かにして長い鏡に似たり、四時の月好けれども、秋最も宜しい」という詩に、ここの景色がよく言い表されています。

白堤を出て、蘇堤の起点の所に西湖十景の一つである「曲院風荷」があります。この曲院は宋代には今の霊隠路の洪春橋の近くにあったものです。これは官酒、つまり、宮廷用のお酒を醸造する工場で曲院と呼ばれたのです。この曲は楽曲や歌謡曲のことではなくて、お酒を作るのに使う工事のことです。当時、曲院の庭に植えられた何百何千もの蓮の花の甘く清清しい香りが風に運ばれ周囲に漂うので、曲院風荷と呼ばれたのです。後にその曲院は土に埋もれて、廃墟となってしまいました。清の康熙年間になって、岳湖に蓮を移植し、あずま屋を建て「曲院風荷」と指名した石碑をたてました。今ここは夏になると、蓮の花が一斉に咲き始め、天と交わらんばかりの葉の青さと風にそよぐピンクの花の自然な交わりが実に美しいです。

蘇堤を南に進むと「蘇堤春暁」があります。蘇堤の景色は四季それぞれに美しいのですが春になって上昇する朝日に柳が映え、鶯がさえずるころが特にすばらしいです。歴史上、多くの詩人がここの絶景を詩でたたえたのですが、南宋の画家はここを蘇堤春暁と称し「西湖十景」のトップに挙げました。

蘇堤をもっと南に行けば、「花港観魚」になります。ここは四季折々に咲き乱れる花と鯉で名高い園です。花港の名前は、かつて花家山から流れ出た渓流がここを通って、西湖に流れ込んでいたことに由来します。「花港観魚」は西湖に臨み、後ろは西山を抱く景勝地で園内には茶室、楼閣、あずま屋、廊が巧みに配置されています。公園の中には、500株の牡丹やシャクヤクが咲き競う牡丹園、鯉が群がる紅魚池があります。

西湖の湖畔に沿って、東に行くと「雷峰夕照」があります。975年にここの雷峰山に雷峰塔が建てられて、塔の夕日に映える姿が実に見事と言われています。雷峰塔は7重に作られた塔でしたが明清年間に倭寇が侵入して、火を付けたため、塔は身体しか残りませんでした。その後、下層のレンガも次々と流失して、ついに1924年に崩れ落ちてしまいました。この雷峰塔はまた「白蛇伝」の物語とも関係があります。伝説によれば、ヒロインの白素珍は金山寺の住職法海に白い蛇の生体を見抜かれて、この雷峰塔の下に、閉じ込められたそうです。いま、杭州の政府が昔の形を復元して、新しい雷峰塔を建てからその風雅な姿を再び見ることができました。

それでは、「南屏晩鐘」を簡単に説明しましょう。湖畔から少し奥の方に南屏山があります。その麓にある淨慈寺の大きな鐘から鳴り響く音が靄のかかった夕闇を打ち震わす時の景色にえもいわれぬ光景なので「南屏晩鐘」と言われるようになったのです。今の鐘は1990年に修復されたものです。西湖の東岸には「柳成陰」があります。それは広さ20ヘクタールの公園で中に、しだれ柳が木陰を作り、緑のカーテンをおろしたように見えます。百花咲き競う3月ともなれば、柳の枝はそよ風に波うち、どこまでも続く緑の陰から時には鳥の鳴き声が聞こえます。現在、この公園の東側の芝生に桜に囲まれて「日中不再戦」の石碑がたっています。これは日本の岐阜市の人々と杭州市民の協力で1963年12月に建てられた物で「日中不再戦」という五つの金文字は当時の松尾岐阜市長の書です。

西湖から少し離れた西の方に「双峰插雲」があります。双峰とは西湖の西南にある高さ256メードルの南高峰と西湖の西北にある高さ300メードルの北高峰のことです。その近くにある洪春橋のところから雲霧が低くて垂れ始めた日に雄雄しくそそりたつ峰峰を眺めると、二つの峰が雲を突き刺しているように見えます 。南北二つの高峰が遠く互い望まれ、その間に山々が起伏し、延々数十キロに及びます。春と秋の雨の日には、雲は遠く山々のように遠くの山々は雲のように見え、雲や霧にとり囲まれた南の高峰、北の高峰が時には隠れ、時には現れて、まるで山水画の世界にいるような気がします。

名所はほかにもまだまだあります。例えば霊隠寺、龍井、六和塔、など実際に数え切れないほどあります。龍井は泉と龍井茶のことです。泉は西湖の西南、松と竹の生い茂る風こう嶺の上にあります。これは3世紀のころからある湧き水で酷い旱魃の時にも枯れることがなかったのです。それはこの中に龍が住み、海まで通しているからだと言われています。それで、龍井の名前がついたのです。この中には、「分水線」という特殊な現象があります。泉の水をかき回すと、水面に波紋が現れ、ヒゲぜんまいのように揺れ動きながら次第に波紋が消えていきます。雨の日には特にはっきりと現れます。この現象は地表の水と地下の湧き水の密度差による流れの速度の違いから生じるそうです。この一帯は銘茶「龍井」の産地として有名で、栽培は、元の時代から始まりました。今では毎年清明節前後にお茶の木に新緑したたるばかりの葉がいっぱい出て、芳しい匂いが鼻を突き、茶摘みの女性たちの喜びの笑い声と歌声が絶えず茶畑から伝わってきます。また龍井泉の傍に古い龍井寺があります。その一帯には「龍井八景」などの名所旧跡が多いです。一方、虎跑泉は「天下第三泉」と言われるほど有名です。それは西湖の西南、約2キロ虎跑山のふもとにあります。伝説によると、9世紀の初期高僧性空がここに住んでいました。ある夜、面白い夢を見ました。夢に現れた仙人が2頭の虎に泉を掘らせました。翌日、2頭の虎が掘った崖の下から清水が湧き出たそうです。虎跑山は大慈山や白鶴峰などに囲まれた谷の間にあり、山の岩石層は虎跑山の方に傾いています。そのため、下へ染み込んだ雨水は重なり合った岩石層を通って虎跑山に染み出ると言うのが真相です。この泉は枯れることがなく、最高2メードル以上湧き出すので、水量が豊富です。科学分析によると、虎跑泉は無菌で栄養豊富で健康にもいいということです。ですから龍井茶に虎跑泉というのは最高の取り合わせですよ。中国では龍井茶と虎跑泉を「西湖の双絶」といっています。それから、もう一つ面白いことがありますが、虎跑泉の水は表面張力がとても強いです。この泉を「茶碗」に満たして、中にはニッケル硬貨をいくつか入れると水は茶碗の縁から約2,3ミリも盛り上がり、外へはこぼれません。しかも、その水面に置いた硬貨は沈まないのですよ。その際、茶碗の直径は小さければちいさいほどいいです。水の表面張力の大きさは「容器の直径とは反比例します。この泉の水を使って入れたお茶はことのほかまろやかでおいしいです。おいしいお茶を飲んだ後で、この面白い実験をしてみてください。

飛来峰は「霊隠」とも呼ばれ、昔から「武林第一の峰」と言われてきました、言い伝えによれば、東晋時代326年に天竺、つまりインドから仏教の高僧―慧理が杭州にきて、この峰を見て、「これは天竺国霊隠峰の一つだ。どうしてここに飛んできたのだろうか」と驚きの声を上げたのです。しかし、だれも彼の言うことに信じないので慧理はまた「この峰の洞穴の中で黒ザルと白ザルが1匹ずつ修行していたが一緒に来た違いないと言って、一声呼ぶと果たして2匹おザルが出てきたそうです。これがいわゆる飛来峰と呼猿洞と言う名前の由来です。飛来峰の細長く連なる低い峰、切り立った岩は、周りの高く聳え立つ霊隠山、天竺山北峰とは全く違った感じを与えます。地質学者の観察によれば、飛来峰は周囲の砂岩とは異なる石炭から約2億年前の地殻変動によって形成されたものだと言われています。今の飛来峰は高さ209メードルあります。曲がりくねった細道を登るとうずくまる獅子、走る象、目をむく豹、伏せる虎などの形をした奇岩がいたるところにありますし、また天を突くほど大樹がびっしりと険しい岩場や涯に聳え立っています。そして、谷間には澄み切った流れがさらさらと流れています。飛来峰の石炭が長年の地下水の浸食によって、様様な形をした幻想的な奇岩と洞穴を数多く作り出しているわけですね 。例えば、大きな虎の口の形をした虎穴、天井から石炭質の乳白色の水が滴るだま乳洞、天井の空間から一金の光が漏れている射旭洞、龍がいると言われる龍泓洞。解放後、造られた螺慟洞、香林洞、千里洞などが特に有名です。それだけではなく、飛来峰はまた中国南方の古代石窟芸術の宝庫の一つでもあります。飛来峰の涯には、五代から宋、元の時代にかけての石刻仏像が330あまりもあります。龍泓洞の入り口にきざまれた三蔵法師図の浮き彫りはきわめてリアルに書き出されています。先頭を行く馬、経書を載せた馬などが実に生き生きとしています。また大きな腹を突き出してにこにこ顔をした座像はたいへん人気があります。これは飛来峰の数多くの石像の中で、最も大きくて、宋代の石像芸術は洛陽の龍門、大同の雲岡、敦煌の莫高窟と北方に集中していますが飛来峰の石窟像は重慶市の大足とともに南方の石窟像として貴重な文化財です。

霊隠寺は霊隠山のふもとにあり、中国の十大禅宗の一つで東晋の咸和元年、つまり326年に杭州を訪れたインドの僧侶慧理が創設したものです。あたりの秀麗な山々を仏教修行者の心霊の隠れ住むところと見て「霊隠寺」と名付けたそうです。全盛期の10世紀ごろには、9楼18閣72殿堂1300余室、僧侶が3000人いたと言われています。現在の寺院は19世紀以後に再建されたものです。このお寺に入ってまず我々を迎えるのが天王殿です。そこには、清代の康熙の親筆による、霊隠寺の別名である「霊林禅寺」の額がかけられています。中に入ると、正面に太鼓腹を見せて笑うほてい像。左右側には四大王像があります。その後には厳しい表情で悪魔をやっつける「伏魔のまね」を手にした韋駄天像が立っています。これは樟の一本彫りで南宋時代の一本彫り芸術の傑作に数えられています。この天王殿の後ろに大雄宝殿があります。大雄宝殿はお寺の仏像を安置して祭る仏殿ですから、霊かくし寺の大雄宝殿は高さが33.6メードルがあり、中に安置された釈迦如来像は高さ19.6メードルで中国の坐像としては最大クラスのものです。この坐像は6年かけて24本の楠を使って作られた寄せ木造です。大雄宝殿の後ろ壁には善財童子が53人の名士を拝み、後ろに普賢菩薩から悟りを得た物語が一面に像で描かれています。

西湖の近くになかなかスマートな「保俶塔」があります。保俶塔は西湖のすぐ北の方にある宝石山の上に立つ塔で西湖の風景の中では特に際立っています。これは北宋時代の趙匡胤が975年に南唐を滅ぼしたのち、呉越の国王の銭が王朝の命令で都に呼ばれ、長い時間が経っても帰って来なかったので、無事に帰るのを祈って、この塔を建てたので、保俶塔と呼ばれたそうです。しかしその後、破壊が繰り返され、今の塔は1933年に建てられた物です。保俶塔の高さは45.3メードルあり6面7重のコンクリート作りのものです。塔の下部構造は比較的小さく、地面とほぼ直角に近い垂直線を形作り、塔の下から仰ぐと実際以上の高さを感じさせます。ですから、昔から「保俶は美人の如し」評価があり観光客から親しくされています。宝石山と言っても宝石がありません。この山は西湖の周りの山と違い、主として火成岩の紋岩と凝灰岩からなっています。山の中には、碧玉、つまり緑色の玉が含まれていて太陽の光にきらめくので、宝石山と古くから呼ばれているのです。宝石山は高さが200メードル以上ありますので、西湖の風景がごとごとく目に入ります。

杭州にはもう一つたいへん有名な塔があります。つまり、銭塘江のほとり目論山の上に高く聳え立っている六和塔です。 これは北宋の970年に呉趙の国王銭が銭塘江の高潮を鎮めるために建てた物です。また、塔のトップにはランプが置かれていて、灯台の役目を果し、銭塘江を航行する船はすべてこのランプを航行の標識に用いていたのです 。六和塔は昔の中国の建築芸術の傑作の一つで国保区級の建物です。これは高さが59.8メードル、下の構造は約860平方メードル、レンガト木で造られた八面体のどっしりとした塔です。外からは13重に見えますが、塔内は7階建てで螺旋状のかなり急な階段がついています。各層の軒先にかけられた鉄製のが風に吹かれると玉が打ち合うような音がします。塔内の急階段を登り、窓から眺めると美しい景色が一望の下に集められます。対岸は細道が縦横に走る絵のような田園風景です。すぐ下には広広とした銭塘江が西から東までながれています。銭塘江を南北に横切る銭塘江大橋も壮観そのものです。この大橋は1934年8月8日に着工して、三年後の1937年9月26日に竣工しました。全長が1453メードルあり、上下二階からなっています。上は自動車道路と歩道で下は汽車専用です。これは中国の技師と労働者が自力で設計、施工した初めての近代の大橋です。これほど大きな鉄橋をかけることは大変でした。当時、川の流れが急で川底が柔らかい砂なので、橋脚の杭打ちが大変難しかったです。そのため、こんなところに橋を架けるのが不可能だと考えた外国人技師もいました。しかし、中国の有名な橋梁技師の茅以昇は困難にめげず、様様な難関を乗り越えて、この偉大な工事を完成しました。いま、それは中国東南部の交通の要衝となっています。茅以昇は中国の大型橋梁建築の始祖にあたる人ですね 。

それでは、次に岳飛廟について説明しましょう。岳飛は中国史上たいへん有名な民族の英雄です。私は中学時代に岳飛の「満江紅」という詩を読みました。岳飛は大動乱の時代に生まれ、波瀾に富んだ生涯を送りました。岳飛は1103年に河南省湯陰県の1農家に生まれ、宋の武将にまで出世しました。江南地方をはじめ全国まで金から奪回する会戦中に、秦楷に代表される投降派は民族の利益を売り渡す陰謀を進めて、南宋の皇帝趙構の命令として、岳飛に撤兵を迫ったのです。「苦労が水の泡」と岳飛は悲しみ、噴り嘆きました。1142年に、趙構、秦楷らの投降派に「莫須有」という罪名で濡れ衣を着せられ、杭州の獄中で秘密裏に殺害されたのです。この大冤罪はようやく21年後にそそがれました。南宋の朝廷はその遺体を捜し出して、霞嶺に改葬し、1221年にここに岳飛廟を立てました。1961年に霞嶺は全国重点文化財に指定されました。現在、岳飛の墓の向かい側に檀根のところに鉄の柵があり、中には両手を後ろ手に縛られてひざまずいている秦楷とその妻、張俊などの4人の鉄像があります。